ひきこもり 犠牲者であるとある家族の実態

ひきこもりと暮らしていた家系の”一番の問題児”は、周りからこう言われている。

『あの人は几帳面で、良い人で、ひきこもりの家族を献身的にお世話している。』

そして、家系のカルマや一番の問題児の悪臭を誰にも気づかれずに一人で吸い取っていたひきこもりは、周りからこういわれている。

『あの人は頭がおかしく、危険で、家族の最たる問題児で、あの人は統合失調症であるだろう。』

 

おそろしい、おそろしい。

周りが褒めているその人間は、わがままで欲にまみれ、自分の身を守るためなら何でもし、嘘ばかりつく。家の中ではひきこもりを罵倒し、嫌味を言い、自分が稼いだお金で養っている訳でもないのに、自分も誰かに養ってもらっていると変わらないのに、にもかかわらず、恩着せがましく悪態ついてはひきこもりを支配する。

美味しいものは自分が全てたいらげ、ひきこもりにはものをなるべく与えない。

わたしはこれだけやっているんだからと、周りからはご褒美を欲しがり、それを無理だと断れば癇癪を起して身内にはものを投げつける。

彼らの中にいつまでも巣食うものは、自分はいつも被害者だと言う”甘え”と”考えの浅さ”だ。

ひきこもりを虐げ支配下においているにもかかわらず、外部の人間には、ひきこもりがとても危険で皆を恨んでいると吹聴し続け、信じさせ、自分が善人であり、自分を悪く言うものを悪人だと思いこませ騙し続ける。そうしてその嘘は自分たちの中では真実になってしまう。そして、誰もひきこもりに近寄らせないようにする。それは、プライドだけ高く何も出来ない自分の生活と人生を守るために。

世話をしているから自分の生活費は他の者に要求する権利があると言い、ひきこもりの人間を『あなたたちと同じ生活が出来ない可哀想な子だ』
と被害者に仕立て上げ、ひきこもりに接することが出来ない他の家族に、罪悪感を持たせようと洗脳し続ける。その必死な形相は貧乏神がとり憑いているようにおぞましい。

その結果、一番の問題児と同じく、深く考えることを家族親族は避け始める。

ある家族はひきこもりの人間が問題を起こさないかと怖れ、多額の仕送りをする。
ある家族もひきこもりの面倒を見させているからと、問題児の言いなりになり、分不相応な高額なものを要求通りに買ってやる。
ある家族はひきこもりと問題児を路頭に迷わせたと自分を悪く言われることを怖れ、家長となるはずであった自分が建てた家から出て(追い出され)役割も放棄する。しかし、罪悪感は捨てきれず、恨みきれず、その中途半端な関わりによって苦しみや重荷を次の代へと遺すのだ。

関わる家族親族たちは、問題児と同じく、自分たちが家系の犠牲者であり、被害者であり、一番不憫なものだと口を揃えてのたまう。

そして、家系の処理をしなくてはならない者に負担を強いても、我こそが被害者で不憫なものだとういう意識に囚われ続け、感謝の言葉も不憫だと想いやってやることも忘れ、お金や情で、それを次の代のものに横柄に強いてしまうのだ。『仕方がないだろう、君よりもわたしはもっと大変な負担を背負ってきたのだから』と。


家系の後始末に奔走し疲れ果てたものに対して、わたしは疲れ果てたと言い、意見を言えば泣いて同情を買おうとし、それぞれの処理しきれなかった想いを、たった今、家系の後始末に心身ともにエネルギーを吸い取られる思いで動いているものに吐き出し、甘えるのだ。

嫌なことはしない、面倒な権利は放棄する、しかし、罪悪感や人からの目を気にし、自分が情のある人間だと思われたいがために家系の問題児に同情を寄せる。

そのせいで、家系の後始末に奔走して疲れ果てているものの負担がさらに大きくのしかかることなど気にもせずに。要求ばかりが増え、出来ないと言えば暗い顔でか弱い声で苦しみを表し、出来ないと答えた者に罪悪感を生じさせる。

これこそが家系のカルマだ。

問題児は常にあけて通されたがために、完全に我が物顔でその家にのさばり続け、権利を全て自分のものにし、まるで家族に捨てられたものを献身的に介抱しているように周りにアピールし続け、そうやって、自分の楽な人生を守り続ける。

この家系の者たちの、いつも頭にある想いとは、自分が一番の犠牲者だというもの。


一方、ひきこもりは、このような世界を見続ける。

周りにいい顔をして立派であるように周りには話をしながらも、家の中では世間へや自分への悪口や愚痴を言い、汚い言葉を吐き続ける真の問題児たちの話や顔つきである悪臭を嗅ぎ続け、心の中でそれを人間のクズだと分析し、長年のその作業によって彼らをいつも客観視し、家族ゆえの情など完全に捨てることも可能とする。

あえて虐げられ過酷な生活を自ら強めることで、それら(家系のカルマや問題児)に反発し、反抗し、そして自分の正常さを保つためにあらゆる知恵をしぼる。

少し怖い風貌のせいで、少し変わった話し方や身振り手振りのせいで、確かに病的にも異常にも見える彼らは、その悪臭を何十年も嗅ぎ続けながらあらゆる掃除をし続け、その仕事をやり終えれば、どの家族よりも鋭敏でまともな話をする。そして、家系のカルマを未だ一人で背負っている者への深い理解と手助けをしてくれる。

ひきこもりの彼らは、家系のカルマを背負い掃除する役割を持つものを、自らの思いを吐き出すことで守り、そして助けてくれるのだ。

ひきこもりの彼らは人に使われたくない、人に命令されるのも確かに短気を起こしそうなくらいに嫌なのだ。

だから、そうやって悪臭に耐えて生きることが、自分が外に出ず、人に偉そうに使われないで、穏やかにあれる生活を守ることだと理解して、それを修行のようにやり遂げる。

互いの関係の中で殺意を持っているのは、いつも周りには立派な人間であると猫をかぶっていた問題児たち。

ひきこもりに『くだばれ!』と言い
ひきこもりに『自殺はするな!』と言い
『お前たち(自分たち以外)はみな生きる価値もない』のだと笑いながら言うのだ。

周りの人の生き様を見ては、『ああなるくらいなら死んだ方がま・し・だ』と高笑いをし合っている。

そんな一番の問題児の、さぞかしご立派な死に様を見届けようではないか。

『お前の死に様など、何をどう頑張って、人のお金で神頼みをしても、結局この程度にしかならないのだ』と高笑いしてやる。
『地獄におちて、悔しがれ!そしてその根性が根こそぎ枯れるまで出てくるな!』
『わたしがしっかりと地獄の蓋を踏んでおいてやるわ!』

そう言いながら、わたしたちは、わたしたちの役割を強烈に想い出して行けば良いのだ。


問題児は誰にも愛されることのない人生を経験し、人間の汚さを嫌というほど見せつけて死んでくれる。

『これほどまでに愛されない人生を見せてくれて、ご苦労であった。』と言うと、ただ同情しかしようとしない者たちは、わたしたちのような役割を、頑張ってくれているが冷たい人間だと思う。自分の方が情が深く優しいとまた自分を甘やかす。そして、わたしたちのように頑張り役割を果たす者が周りから過剰に褒められれば、どこか不機嫌に自分を不憫に思うのだ。

しかし、ひきこもりも、家系の後始末をする役割のわたしたちも、ただ同情し自分を犠牲者だと思う自分に甘い者たちよりも、一番の問題児に直接手を尽くし、生きるエネルギーを魂の奥底から使っている。わたしたちにとっては、それは一番の問題児への愛のつもりだ。

わたしたちはその役割を果たしながら、この怒りに満ちた冷静さや愛や浄化を、誰も理解してはくれないことを乗り越えてゆくのだ。

その過程で湧き上がってくる、とうに捨てたと思った”理解してほしいと言う甘え”、それを未だに諦めきれていない自分を再確認させ、甘ったれたへどが出そうな自分をぶん殴りながら、わたしたちの根底に刻まれている、わたしたちだけが理解し合える”優しさと愛”へ、かえってゆこうではありませんか。

 

和美

コメントありがとうございます

確かにそうですよね、、世の中って残酷。不公平。

  • 2018年03月30日 06:27:54

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