【浄化作用】自分の心の声が人を怒らせる→怒らせた結果それぞれの道を極める。めでたしめでたし。

わたしたちは、人に好意を持ち敬意を表しながらも、その人を利用することがあります。


その利用方法とは、

自分の暇つぶし(時に冷やかし)、

自分の欲求不満を誤魔化すため、

自分の虚栄心を満たす、

相手を利用して自分の利益を求める、

等々

その根底に隠されているものに、相手に対する嫉妬心、蔑み(自分ならもっとすごいことが出来ると思っている)、そして 怒りがあります。

 

何度もいますが、それが悪いとは言わないのです。人間ですもの。


そういう関係に問題が起き、そんな姑息なことをしてしまっている自分に気が付いたのであれば、今後どう生きたいかを自分に問いかけるべきなのです。

自分の本心本音に気付かないまま 取り繕っていい人ぶっても、相手に嫉妬したり、怒ったり、相手を蔑み、何だかなぁ~と思う気持ちなんてそうそうなくなりはしないのです。

その悪いと感じ、悪いと評価される感情を押し殺し、良い人であろうと努力し始めると、その心の奥底に、恨みや怒りがもっと巣食うことになるのです。それは孤独感が強まれば殺意に近い念に変わるかもしれない。

 

そんな小賢しい自分に気付いたのなら(例えばまるかん本部を小賢しいと馬鹿にしているのに、そうではないような風に装って接していたわたしの小賢しさのように)、そんな奴らにひれ伏している態度をとらなくてもよい自分になるよう、自分自身と向き合って生きてゆくのか、それとも、それがとても出来ないと気付き、本当の自分の無知や力のなさを認め、それを愛し、謙虚に生きることを選ぶのか。


結局、適当に取り繕っても、相手との対話で自分に嘘があるから相手は不快感を示し、そして相手の”何か”を突くことになり、わたしのようにまるかんから”(内心反感持ってバカにして、しかも言うこと聞かないんなら)辞めてよね”と警告がくるのです。

 

素晴らしい浄化作用ですね。嘘をついている自分の本音が言動に漏れ出て、相手が内在させていた”何か”を突き、相手を怒らせる→双方の問題点や改善点を露呈させ発展・淘汰される→怒らせた結果それぞれが道を極める。。めでたしめでたし。


自分にとっての”威嚇”、どう捉える?

このお試し、どう捉える?


見つめなきゃいけないのは、自分が切に望んでいる本当の生き方に気付こうとせず、それから目を背け続けている自分の姿です。決してピンチでもないし、失意する必要はないのです。

そこには自分の底力を発揮させるかどうかの飛躍チャンスしかない。


自分の本心を隠し、威張っていると感じるものにひれ伏し、一生教えを乞うてゆくのが自分の生き方で良いのか。

ひれ伏してたまるか!そろそろ、本気で動くぞ!と息巻いて、実質的に動き自分の実力を発揮させる努力を始めるのか。

どっちにしても、覚悟がいるのです。徹底的に自分との向き合いであり、孤独な作業です。答えを自分で探してゆく。でも、実はそれがたまらなく楽しい。

 

自分の心に嘘がないか。これとっても大事。嘘がつけないのが 社会において上手く生きられないわたしたちの特徴であり個性。

 

『カウンセラーになりたい…。』

と初めて思ってから12年経ち、初めてその想いを本気で口にした時、ああそれはダメでしょ…という顔をされた。それから3年後、わたしはスピリチュアルカウンセラーになりました。


あなたは、いま、それをあきらめる?
やっぱりできない、いつまでも報われない、誰にも理解されないってすねてやめちゃう?


スピリチュアルな執念と往生際の悪さでさ、自分の持つ異常性をすごい力に変えようよ!

 

 

そうしないと、あなたに脅威を感じ、あなたを異常だと思い、威嚇してきたと感じた人たちの生きている世界であなたは評価されるだけにとどまって、その波動や、間違っているかもしれない認識によって ”自分” を設定されてしまうよ。

異常でないものも異常とされ、異常でないはずの自分を異常と思いこみ、力なき未熟者と思い続ける人生を選択するかもしれない。

本当にあなた、それでいいの?

 

わたしとともに、 魂が持つ異常性や、実社会で生きにくい、感覚のおかし~いところ これをうまく生かす道をみつけて歩こうよ!

 

 

 

 

 

  • 2015年03月04日 23:22 / Comment(2)

コメントありがとうございます

ゆるきゃら

こんにちは

人が、人に抱くところの負の想念のカタマリが、怒らせる人や、嫌われ者、不安定な人や、孤独感の強い人、渇く人、世の中を賑わす人達を製造しているかも知れません。、怒っているのではなく、怒らされている?、やらされている?

それは、たったひとりの人間だけではなく、大勢の人の想念がそういう人間を製造しているのではないかと思います。なので、その責任は、誰にでもあって、スイッチングは、どの人間にもあてはまるし、また、あてはまなないかも知れない、何だか量子力学みたいですが..

自分の想念に是非を加えず、あるがままを観察する、素晴らしいですね..

そういう観察の原始的な瞑想も、今では「マインドフルネス」なんていうお洒落な名前になったりもして、ちょっとリメイクされて出てきたりして、、

以前はちっとも興味なかったのですが、去年の暮れから、気になりはじめまして、マインドフルネスを気が向いた時だけネットでサーチして、読んで、ちょこっとやってみることにしました..

ホント真剣にこの修行と向き合っている人には申し訳ないくらいな加減ですが..「こんな簡単なことで?」と.最初はタカをくくっていたんですが..この何げに、それとはしに、変化をもたらすような、これは、一体何ものなの!?と思いましたが、未だに、良く理由がわかりません。ただ、「やってみて良かった」それしかいえないんですが..

たまたまテレビで加山リカ先生が出ていたので見ていたら一日3分でもいいですよ〜とおっしゃっていました。私は一週間に10分〜15分くらいです。こういうのはゆるい程良いなんてことはないんですよね、ホメオパシーのレメディみたいに一万倍に薄めるといい感じで効くとか..(^^;)

精神医学では療法として活用されているようですが、これも時代ですかね。

昔:釈迦の瞑想 「ヴィパッサナー」
今:加山リカ  「マインドフルネス」

http://www.samgha.co.jp/r.kayama.selection/

ではでは(^^)/〰

  • 2015年03月06日 14:53:38

Kazumi

ゆるきゃらさま

コメントありがとうございました。

他人の負の想念に染まり朽ちてゆく速度は、その威力をもってすれば一瞬です。
たった数秒前に有頂天になるような幸福感があったとしても、です。

スピリチュアルな世界を求め、その知識やその手段を理解し魂に取り込め、それを求める魂的な力がある人ほど、その感受性があだとなる。常にその意識が必要です。

自分をしっかりと感じながら、たとえそれがゆるい程度のマインドフルネスであっても、”その領域”に入ってゆきます。ゆるかろうが、極めようが、同じ領域。

  • 2015年03月12日 22:09:20

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