目覚めよ!⑥~”自称スピリチャルカウンセラー”の告白は、これからだよ。~

 

純心で賢くてせっかちなsasaraさんは、猛スピードで告白をしちゃって、これで今回の件が収束したかのようにおっしゃっているけれど、能力不足ととろさでsasaraさんの様子見をし、ある意味ズルくなってしまったわたしは、実はここから本題、ってところです。あれほど悶々としながら潜めていた想いを、わたしのねちっこくしつこい性質は簡単には終わらせません。小林正観氏の記事を読んで下さった方なら、頷いてくださると思うのですが。

正直、”守護霊さん”だの、”自己浄化の言葉”だの”スピリチャルごと”に関して、実はね…、って話したいことがいっぱいなのですが、長い間、それを言ってもいいものなのか、不謹慎ではないか、種明かしはルール違反ではないか、いや、sasara式に正直に言えば、そんなことを口に出し始めたら、『この仕事なくなるんじゃない?』『この仕事したくなくなるんじゃない?』ってことかもしれません。 

幸いすべき仕事があるし、去年から保護した猫を合わせると計7匹のごはん代がいるので、現実稼がないといけません。なのでなかな記事を書けない。それを理由に、わたしの想っていることなんて話す必要はないと想いだけためてきましたが、そろそろ、言ってもいい時期なのかもしれない、いや、わたしのお口が黙ってらんなくなったのかもと、話すことを思案中です。相変わらずのゆっくりのろまペースですが、誰か同じことを感じている人が一人でもいれば、『そうそう!わたしもひょっとしたらそうなんじゃないかって思ってのよ!』という声を感じられるので楽しみです。

スピリチュアル界の”日本エレキテル連合”(わたしは関西人カップル逃避行がツボ)のポジションをsasaraさんと一緒に得たいというわたしの野心がわいてきてしまったらどうしようとか、くだらないことを考えながら、ねちねちと、告白していきます。

 

 

 

スピリチュアルな生き方を求める人たちは スピリチュアルな才能を持つ人を生かし、育てます。

スピリチュアルな才能を生かす人を育てることで、スピリチュアルに生きようとする人たちは自分たちの霊性を高め、高度なエネルギーを持つ意識体へと拡大していきます。

スピリチュアルな生き方を求める人たちとスピリチュアルな才能を持つ人は、持ちつ持たれつの関係ではありますが、そのバランスを往々にして崩してしまうのが、また双方の学びともなっているようです。

 

わたしはこれまで、

『あなたの力や想いを誰よりも知っている、サポートしてあげられるわたしにもっと心を開いて!そして、わたしの言うように動いてごらんなさい、わたしにあなたの心の苦しみを吐き出して御覧なさい!』

という、いわゆるスピリチュアルな生き方を求める人たちから援助をされかけたことが何度もありました。

 

相手の言う事(愛)も解らなくはないのですが、それは時々、スピリチュアルな才能を生かすしか生きる方法がない”わたしたち(スピリチュアルな才能を持つ人)”にとっては、解った風にしている相手の態度につい、『この苦しみを本当に理解してはいないだろうし、出来ないだろう』という哀しさとやるせなさを感じ、そういった投げかけがわたしたちを最も苦しめるのだ、あなたのその過信こそが自分を苦しめていることに気付かないのか?とこちらは毒を吐き出したくもなるのです。

 

結果的に、そういう相手とは距離を置くことになり、ときに、遮断しなくてはならなくなるのです。

 

その援助を”わたしたち”が受け入れられない理由は、彼らにそれを吐き出すことで、”わたしたち”は楽にはならず、どんどん委縮してしまうと感じているからです。自分の吐き出したことのない苦しみを一旦出すと、そのバランスを自分で取ることを難しく感じ、相手との距離感のバランスをはかることを自分にも相手にも出来ないと感じたり負担に思うのです。それに加えて、こちらが背負う苦しさやジレンマを吐き出すことで、彼らの驕りや優越感が、彼らの自滅にも繋がりかねない不調和を生じさせると感じてしまうからなのです。

 

それは、感じているというより、そういうものを多々見てきたからだとも言えます。

 

”わたしたち”が一旦彼らを受け止め告白してしまえば、彼らは初めて苦しみを告白したわたしたちを支配し始めるのです。

 

そして、スピリチュアルな才能を生かす”わたしたち”は、どこかで相手の優越感や支配を受け入れてしまうことが謙虚さだと感じるクセを持っているのです。それは、スピリチュアルな仕事をしてきた”わたしたち”の罪悪感によるものです。その罪悪感とは、スピリチュアルな能力と仕事によって、立場を使って自分達が真にスピリチュアルに生きようとする人たちを支配してしまったのではないか、道を間違えさえてしまったのではないかと言う自責の念と罪悪感を感じてきたからなのです。


この感情を再び感じまいと彼らから距離をおくと、かなりの確率で起きてくることは、彼らがわたしたちに、無視した!逃げた!交流を遮断した!と怒りを隠し持ったつつきを始めることです。時にそれは、想念として。

 

そして、”わたしたち”が内心気付いていた、彼らが隠し持っている本心=【わたしは、あなた以上にスピリチュアルな能力を持っている】または【あんたの能力本物?】と思っていたことをあからさまに出すようになり、怖がるあなたに教えてあげるのだと言って導こうとし、そして、関係を遠ざけ避ければ、彼らは異常性さえ強めてくるのです。

 

そして、”わたしたち”は、彼らの優しさをまた、自分達の歪みで憎しみや驕りに変えてしまった、賢さを持った彼らを悪い方へ刺激してしまったと、これまでと同じ罪悪感を感じながらも、それはもうどうしようもできないものだと諦め、その哀しさとも怒りともつかない想いを、自分の自立性へ転換してゆくしかないという決心に変えてゆくことになるのです。


しかし、今回のsasaraさんとの関わりの中で起きたことは、わたしにとって、この過去の想いは、ひょっとしたら”今はただの想い込み?”と感じることが出来、”もうバランスとれるのかも?”、”それは自分の強い意志で可能なのかも”と感じられたことです。


わたしが自分の本音を出したとしても、彼女なら、自分が刺激を与えただけで、その内容は彼女自身への指摘とはとらない心(スピリチャル)のバランスと強さがあり、そして、彼女を通し、彼女を横に据えて告白すると、誤解を招きにくくなり、わたしは告白した後も、誰とでも何にでもバランスをとれるのではないかと感じたのです。

 

過去でわたしに投げかけてきた人たちに、この本心を言うと、彼らの中にある弱さとプライドが邪魔をして【それって、わたしのことを言ったのか!?】と取られてしまうため、なかなか口に出すことは出来ません。

 

この告白とは、スピリチュアルな仕事をしてきた”わたしたち”全体の想いであって、わたしの個人的なものではなく、投げかける相手も、個人へではなく真にスピリチュアルな生き方をしようと関わってくれる人たち全体へ投げかけたいものなのです。

 

であるため、自分が全体として存在し、全体として関わり合っているという認識がまだなく、”わたし”個人が存在し、わたしとあなたが関わり合っているという認識を持つ方へそれを告白すると、意味を取り違えてしまい、それがまた”わたしたち”の『まだわかってもらえない』という諦めとなるのです。

 

sasaraさんは、良くも悪くも欲やプライドがなく、全体の一部であることを誇りに思っている方なので、この告白とバランス調整が可能に感じて、わたしの吐き出したい想いが沸々とわいてしまったのです。

 

ということで、諸々告白は続くかと思います。夜露四苦。

 

 

 

和美

 

 

 

  • 2014年09月18日 23:04 / Comment(1)

コメントありがとうございます

ルル

2012年8月18日の記事に、今更ですがコメントさせていただきました。

  • 2014年09月21日 03:37:25

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